牙を抜かれた主婦の絵日記

育児マンガとどうしようもない独り言。お気軽にコメントください!

【アメリカ西海岸の80年代】外国人をうけいれる体制と感情の変化

1980年代にアメリカに引っ越した私は、現地の小学校に入学しました。

 

すると、そこではしっかりとした外国人の受け入れ態勢を整えてくれていたのです。他にも日本人の子が1人いたのもあるでしょうが、まず、英語が不自由な子だけ集めたESLというものがありました。

 

ESLの時間になると私はバスで別の学校に向かいます。

そこでは1つの教室で、地域の小学校から集められた「英語があまり話せない」子どもたちが授業を受けます。

 

早い子は1年ほど。たいていは2-3年ほど通って、英語が話せるようになるとESLは終わりになります。

 

ESLにはいろんな国から子供たちが通ってきていました。

英語が話せないという共通点があるのはホッとすることでした。

お互い母国語は違うし英語が話せないので満足にコミュニケーションが取れないはずなのですが、「言葉で伝え合えない」ということがその場のコミュニケーションスタイルだったと思います。

だいぶ昔のことなので記憶があいまいですが、仲良く楽しくやっていたと思います。うっすらとした記憶ではボーイフレンド的な子がいたような…(人生でこの時だけですわ)。

バレンタインの時に「くじで名前を引いた子にカードを送りましょう」みたいなことをやったけれど、その子と「関係ないもんね、くじと関係なくカード送り合おうね」ってやった記憶があわ~く…よみがえってきました。これを書いているうちに。

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ハートの画用紙を切ったり張ったりして、簡単なメッセージを書いたことを覚えています

でも一生を通じてモテなさ過ぎて作り出した幻影かもしれません。

 

 

仲いい国の子悪い国の子。子どもには関係ありません。

同じ「外国人」という仲間で仲良くしていました。

言葉を覚えたら年度の途中でもいなくなり、どんどん新しい子が入ってくるので入れ替わり立ち代わりでしたが。

 

本当にいろんな国の子がいたので、「お誕生日は?」と聞かれて「火曜日」とか「木曜日」と回答していた子もいました。

ミャンマーなど、東南アジアでは産まれた曜日を重視する国があるそうなので、そちらの方から来た子たちだったのかも。

 

 

ESLには毎日1,2時間ほど滞在していんだと思います。

 

 

ESLとは別に、ボランティアが週何回か個別授業をしに来てくれました。

ちょっとパーティションで区切った場所で2人きりになって読み書きを教えてもらいました。このボランティアはクラスメイトのお母さんで、本当に立派な人でした。よくしてもらいました。

 

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北欧系の銀髪の人でした。

時々思い出すのですが、私が英語も含め好成績で小学校を卒業した時に、彼女がとても誇らしげだったことです。おばあちゃんの思い出話のように出会ったばかりのことを繰り返して、「それがこんな成績を…」と嬉しそうでした。

 

後で話しますが、当時は日本人に風当たりの強い時代。
その時代でも、人種の違う子どもにそんなに愛情をもってボランティアで教育してくれていたなんて、なんてありがたいことだろう…。

自分もネットや巷のヘイトに流されることなく、文化の違う人に対しても愛情をもって接したいと思うのですが、案外簡単なことではありません。

 

アメリカは移民で出来上がり、移民の力を借りて強くなった歴史もあるので、

強くあり続けるためにも移民を受け入れ活用する仕組みがちゃんとありました。

いっぽうで、歴史を通じて、そして今でも、

主流を構成するグループの、変容したくない、この国の主流グループの構成団体の様相を変えたくない…という感情的な抵抗がある

という自己矛盾を抱えています。

 

昔は「イギリス系」とそれ以外の人。

でもそれもみんな混ざって、「キリスト教ヨーロッパ人種」という団体になり。

ユダヤ系の人も混ざり。

私が見ているうちにもラテン系の人たちがどんどん構成員として存在感を増してきています。