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吠える主婦の絵日記

育児マンガとどうしようもない独り言。お気軽にコメントください!

周瑜の遺書(オタクで長い。)

三国志のことを考えるときに参考にするのが、正史と呼ばれる陳寿の「三国志」、ずっと時代が最近になってからエンターテイメント本として書かれた「三国演義」、民間伝承、それからほとんど出所がよくわからない異端書などです。
歴史家・小説家等はそこからヒントを拾い上げて自分なりのセオリーを作るものだと思います。
その際どの資料に重点を置くかはそれぞれ。

私は「三国志」を”正しい歴史”として中心に据えながらも、民間のフィーリングを取り込んだはずの演義も一片の真実を含んでいるのではないかと思っています(特にニュアンス的な部分で)

さらに、正史「三国志」を読むときに注意しなくてはならないのが、裴松之の注釈が混ざっていること。
裴松之の注釈はあくまでも異説なども集めて書いたもの。信憑性がある資料ばかりではありません。

ちなみに時代で言うと、陳寿はまさに蜀の滅亡を見た人物。諸葛孔明が亡くなる前年に生まれています。
まさに歴史の証人が書いた書物ですが、その後仕官した晋の思惑が入っていないともいえません。
裴松之が注釈を加えたのはそのざっくり200年後。演義はもっとずーーっとずーーっと後に書かれたものです。

正史というのは後の施政者が都合がいいように書いたものであるから信じない。
読むべきは演義のみって人に会ったことがありますが、そりゃちょっと極端だ。

が、所詮過去の証明は不可能に等しい。あとはひたすら、想像の羽を広げるんです!



周瑜の人生をざっと追っていくと、もともとは地方の豪族ながら、中央でも高い官職の人物をたくさん生んだ名門の家に生まれています。
主君・孫権とは母方の血縁があったという説がありまして、私はこの説が好きです。
16の頃だと思いますが、うんと格下ではあるものの、時の大悪党トウタクに元気よくはむかう武闘派一家、孫家がご近所に引っ越してきて、その一家の長男孫策と仲良くなります。
ご近所にきたというより、周さんちに孫さん一家が居候したものと思われます。

しかしその後孫策のパパが戦死しして、孫家はお引越し、さる政権強奪を目指す豪族の下にかくまわれることになります。
周家もその豪族に仕えますが、両家はおそらく意図的に引き離されます。
(その後の色々な経緯はすっとばし)
その後、21歳くらいになった孫策は、自分を飼い殺しにしていた豪族の元を思い切って家出
それに呼応して(実際には、孫策周瑜もその豪族との縁は徐々に切っていったわけだが)
親友・孫策の元に駆けつけ、二人はあっというまに江東地方を制圧していきます。

孫策は明るく活発で、冗談好き。しかし複雑な一面もありました。
「周りが心配してくれる気持ちもわかっているのだけれど、気が滅入ってしまってどうにもならない…」と一人で出かけてしまうことしばしば。
「もっと自分を大事にしてくれ」と頼む周瑜の思いもむなしく、
わずか26歳の時に暗殺されてしまいます。

その頃の孫策の領地は、今で言うならLLPといいますか、豪族の連合軍的な緩やかな集まりでした。
そんなわけで、盟主が死んだってことでみんなバラバラと去っていこうとします。
それを引き止めるために活躍したのが、周瑜でした。
跡を継いだ孫権の技量を疑う人々を説得し、
始めて孫権に対して臣下の礼をとることにより、孫権を主君として抱く集団の基盤を確立したのです
曹操が攻め入った時には見事赤壁で北軍を返り討ちにし、
更には中央を目指して北西へと進軍を続ける最中に吐血し亡くなってしまいました。
享年36歳。

美形で有名ですが、性格も明るく丁寧で、誰からも好かれていたらしい。
音楽が得意で、楽団の中で演奏を間違えた人をちら見するところから、
結構ユーモラスなところもあったと思われる。



この背景を知っていないと、周瑜の遺書の背景を読み解くことができません。
正史では遺書ではなく「孫権への手紙」となっています。
周瑜にとって孫権とは、鼻たれ小僧の頃から知ってる幼馴染で、孫策が死ぬときまで、同じ主君に勤める同僚になるはずではあっても、主君になるとは思っていなかった人です(孫策の子供がいずれ主君になることは予想したとしても)。
その孫権に宛てて書いた、感情に溢れる文章がこちら。
(ただしこの手紙は江表伝のからの抜粋なので、やや信憑性は低いと言わざるを得ません)
かなり噛み砕いて書きました。


「私は才能がないにも関わらず、孫策様によく取り立ててもらいました。
この辺りを平定して更に天下を目指したいと思っているものの、
自己管理がなっていなかっため、病気になってしまい、
養生はしているものの、どうやらだめそうです。

人は誰しも死ぬものであり、その長短は運命であるからして、短命に終わるからと言って惜しいとは思いません。
ただ一つ、もうささやかな志を全うして、あなた様に仕えることができないことだけを恨めしく思います。

北方には曹操がいて国境は騒がしく、劉備も信用できる人間ではありません。」


ここで中断ですが、
このころ劉備孫権の元に身を寄せていました。
周瑜劉備をまったく信用しておらず、暗殺を考えていたとも言われます。
一方孫権は気に入ったのか、名声を利用しようとしたのか、妹まで嫁がせる始末。

ここは完全に想像ですが、
孫権のために必死にこれまで戦ってきた自分よりも、評判の悪い山師のおっさんを信じちゃった孫権に対して、寂しい思いもあったのではないかと。

続き。

「天下のことはまだ定まらず、今はどうぞご深慮くださいませ。」

ここのところは、より信憑性の高い正史本文に似た文章があり、こちらの方がよいので載せます

「天下は定まらず、それが朝から晩まで周瑜が心底憂慮していることです。どうかあなた様におかれましては、事態に備え、楽しむことは、その後にしてください。」

元々プライベートではいっしょに暮らしていた弟分への気持ちがちらっと見える感じがするのです。
江表伝に戻ります。

魯粛は忠義深く、職務をおろそかにすることはありませんので、私の後任に推薦いたします。」

ここで、周瑜魯粛を後任に推薦したことの意味を解説したいのですが、
そもそも周瑜が大嫌いだった劉備を呉にひっぱり込んだのは魯粛です。
元々この二人がタカ派として赤壁・北上・天下二分の計とことを進めようとしていたのですが、
いつしか周瑜魯粛の方針は大きく離れていきます。
最後には拡大路線をとる周瑜に対し、魯粛は防衛を重視するようになって孫権劉備との距離を縮めはじめます。
私には、この魯粛劉備の動きのために周瑜はやや孫権から遠ざけられてしまったようなところがあるように見えます。遠征地から手紙で孫権を諌めて も、魯粛劉備の言葉の方が採用されてしまう。その頃の周瑜は寂しい立場に追いやられていたのではないかと思います(しかも怪我を負って病気して…)。
その彼が自分と方針の違う人物を後任に推薦したのは、まことに自分の死後にその策を受け継げる人物がいなく、公正に見てナンバーツーが魯粛であったから。
自分の主義を曲げても、自分がやってきたことが無駄になるとわかっていても魯粛を推薦したところに周瑜の公正さを感じるのです。

そして

「人がまさに死なんとするとき
その言葉に悪意はないと言います。
もしあなたが私の言葉を取り上げてくださったならば、
私は死んだ後も永遠に生き続けることができるのです。」

ここに、自分を完全に信頼してくれなかった孫権に対する悲しい気持ちと同時に、
残酷な一面を見せる一方やさしくて涙もろい一面もあった孫権の情に対する期待も垣間見えるように思えます。

周瑜は本当に家族のように孫権を盛り立てていたのではないだろうか。
家柄のいい周瑜なら他の道はいくらでもあった。曹操に仕えて朝臣となることもできた。
しかし、一方で、周瑜が品行方正に孫権を立てるほどに、孫権は辛い思いをすることになった。
兄と比べられる。周瑜にしたって、仕える相手が親友孫策の方がよかったはずだ、と孫権は思っていたかもしれない。
孫権孫策と比べられることを嫌った。軍事能力に溢れた孫策に対し孫権はどうしても見劣りするところがある。
そして孫策の時代の象徴的人物がまさに周瑜だった。

周瑜の子供を冷遇したことから、孫権周瑜に対する思いは複雑だったと言われる
(放蕩息子に対する罰として妥当との声も)
周瑜が死んだときの孫権悲しみようは正史に記録されています。
死も、自分の志がまっとうできないことも潔く受け入れられた周瑜でしたが、そんな彼ですら持っていた一辺の心残りが見え隠れして、とても切ない文章だと思うのです。